重力

2008年7月12日更新


今出川通を自転車で東に進み、銀閣寺の南を抜けると、五山の送り火の一つ大文字山に至る。麓の馬場に着く頃には、辺りは真っ暗闇であった。ライトを点けて山に入る橋まで歩み行く。人の話し声が聞こえたので、配慮してライトを消すと、その瞬間、一人が足を滑らせた。

「大丈夫ですか、前にライトを点けていて怒られちゃったもんですから…」

「大丈夫です。ありがとうございます。」

これ以後、千里塚までライトは消したまま。白っぽい影を見るとすぐ人影に思えてしまう。その度にわずかな戦慄を感じる。妙に足が疲れ、自分の呼吸音が耳につく。なのに何故かペースを落とせない。一歩運ぶ度に足首の疲労を感じ、地球はこうも自分を引っ張っているものなのかと思う。―この重さは本当に自分の正味の重さだけに依存しているのだろうか―疲労した頭の中でそんなとりとめもないことを考えているうちに、道が傾斜しているところに差し掛かっていた。それに気づかず同じ一歩を繰り出すと突然の浮遊感。体が右へ流れ、地面が自分から遠ざかる。慌てて重心を下げてそれからゆっくり恐怖する。恐怖を隠すようにすぐにまた歩き出す。疲れも忘れている。

「あの時重心を下げていなかったら僕は空を飛べたんじゃないだろうか。」そう思い、自分が飛び出していたであろう空を見下ろすとそこには街の夜景があった。それは街というにはあまりに美しかった。陽炎のように揺らぐ街の光を見て、「あれが僕を引っ張っていたのか」と一人納得する。そして、千里塚へ。「大」の文字の下から登る道への入り口を見つけるため、人気のないことを確認してからライトを点けた。鮮明に浮かび上がる別世界。テレポーテーションという超能力はきっとこんな感じだろう。どちらが本当の世界か一瞬途惑いながら、しかし足のしびれがそんなことは忘れさせてくれた。石段に足を踏み入れるとそれが合図だったように突風が僕を煽る。僕の背後に街がある。後ろを振り向きたいという衝動とこんなところで休みたくないという理性が葛藤を起こす。「ふう」と一息ついてから振り返らずに石段を一歩一歩登っていく。僕は一歩一歩登っていく自分の姿を頂上から見ていた。街がゆっくり沈んでいく。登り切る。街が発光している。ちりばめられた強い光は遠くへゆく程ゆらゆらとゆらめき、そして街全体が発光している。街全体がうなり声を上げている。

ゴーーーーーーー。

苦しみに悶える声か。

緑に囲まれながら、人工光に生命を感じるのは僕だけだろうか。あの声は誰の声だろう。人、それとも大地?

空には街の光に負けないくらいの明るさで星が輝いている。しかし、それは街のようには発光していないし声を上げてもいない。もしかしたら、人類は孤独なのかもしれない。

今度は階段の方から降りる。数段降りてからふと前を見ると階段が闇の中に消えている。恐怖はなかった。一歩一歩降りていく。まるで何かの儀式のよう。階段の下には当たり前のように道があった。その道をゆく。枝の間から見える街の光が僕を速くと掻き立て、自然、足が速くなる。「やはり街が僕を引いているんだ。」とそのとき、いきなり体が宙に浮いた。

「落ちる!」

たった5、6センチの落下。しかし、体中から脂汗が出て心臓がドクドクと脈打つ。恐怖という概念が体中に染み渡り、僕の体から発散し、辺りに立ちこめた。「もしもいかなるものにも恐怖を感じない生命があるのなら、それは神を名乗るにふさわしい」そんな言い訳を考えながら、腰を下げ慎重に足を運んだ。足が震える。これは疲労かそれとも恐怖か。全神経が足下に集中し、もはやそれ以外のものは感じられない。橋を渡り川沿いをゆく。道がどんどん細くなる。このまま細くなってなくなってしまうのではないかと不安に駆られたちょうどその時、麓の街灯が見えた。早足になり、うれしくなって顔が緩んだ。自転車の横に立つと、馬がやさしい目で僕を見つめていた。

1986年3月31日作 2008年7月11日初出 2008年7月12日推敲


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